2012年10月18日木曜日

ネパール、カンボジア、ラオスの貧しさの違い

 長い間ブログを書かなくて申し訳ありませんでした。僕たちはポカラに帰った後、すぐに僕の友だちの村に行き、少しの間インターネットがつながりませんでした。
今いる村については後ほどお伝えします。
 
 僕はこの二週間のリサーチツアーで分かったことがあります。カンボジアとラオスは後発発展途上国です。僕が住むネパールも後発発展途上国です。でもネパールだけはカンボジアとラオスよりものすごく貧しく見えたことです。なぜこんなに貧しさが違うのかな、と思いました。
写真はのちほどブログにのせます。お楽しみに。

 

2012年10月12日金曜日

タイに着きました!!

 僕が父のリサーチツアーのお手伝いを始めてから、ずっと楽しみにしていた時間がやってきました。
 リサーチツアーを終わってタイに到着したのです。僕は去年タイの首都、バンコクに住んでいたので、とても懐かしかったです。僕と父はお昼からたくさんの場所に行きました。
 ショッピングをするために大きなショッピングモールに行ったときには、とてもびっくりしました。ほとんどのものは、ネパールでは買うことができません。
 明日ネパールに帰ります。

僕がチケットを買っています。


僕たちが去年住んでいたときのより駅です。

タイの電車、BTSです。

バンコクの屋台です。

ショッピングモールの食堂です。

2012年10月11日木曜日

十日間父とリサーチツアーをして思ったこと

今日のブログでは、十日間父とリサーチツアーをして思ったことを書きます。

 1.父はこのようなリサーチツアーを何度もしていると聞きました。僕はあまり何も考えていませんでしたが、父は授業見学をしている時などとても集中しています。一回一回の学校見学を終え、ホテルに戻ったときは、いつも父は疲れ果てていました。こんなに疲れる旅を何回もできるなんて、すごいことだと思いました。

2.カンボジア、ベトナム、ラオスで父の仕事を手伝ってくれた人は全員女の人でした。なぜ男の人と仕事をしないのだと思い、父に聞いてみました。すると、「僕は男か女かなんてどちらでもいいのだけど、いつも女の人が仕事をしたいと言うから。それだけの理由だよ。たぶん男の人たちはお金になることではないと仕事をしたくないのかなぁ。」と父は言っていました。

3.カンボジア、ベトナム、ラオスで父の仕事を手伝ってくれた人の多くは全員Facebookで知り合った人でした。でもその人と会ったことはありません。その人が悪い人かどうかわからないのに、
一緒に仕事をする、といつも決める父はすごいと思いました。だからなぜその人を信用できるかを父に聞いてみました。すると、
「僕はその人たちのFacebookの記事をしっかり読む。まだ会ったことはなくても、人が書いていることを見たり、チャットでしばらく話しをしたり、その人について他の人に聞けば、いい人か悪い人か分かる。」
僕は、大丈夫かなと心配していましたが、行った国で手伝ってくれた人は全員、父の言った通りいい人でした。

 この三点が僕の思ったことです。これからタイに行く飛行機に乗ります。

僕のもう一つの仕事

 今日は僕の今回の旅でのもう一つの仕事について書きます。
僕は父の仕事を手伝うために、父と一緒にカンボジア、ベトナム、ラオスを回って来ました。僕が父と一緒にこの国々に来ている理由は、僕にしかできない仕事があるからです。何回か前のブログで書いたように、僕の仕事は父がこちらの人と一緒に仕事をするときに雰囲気をよくすること、そして、父の荷物を準備したり父がやったことや会った人のことをすべてノートに書くことです。また生徒や学生と会うときには日本の歌を歌ったりして、盛り上げることです。さらに、ラオスではタイ語が通じるので通訳もし手ほしいと言われました。このことについては、前のブログで書きましたが、実は他にももう一つ大事な仕事がありました。  それは、会計係です。お金は、すべて僕が払います。日本だとお金を数えるのがすごく簡単ですよね。でも僕が父と行ったラオス、カンボジア、ベトナムではとても難しいのです。例えば、1円はラオスでは約100キップ、カンボジアでは約五52リエル、ベトナムでは約266ドンです
(キップ、リエル、ドンはそれぞれの国の通貨です)。国によって全然違うのです。ちなみに僕の住むネパールでは1円は約1ルピー、明日行くタイでは1円は約2.5バーツです。
だから財布もいつもいろいろなお金でまんぱんだし、計算するにも時間がかかります。
 会計係の仕事はそれだけではありません。滞在している国のお金が少なくなったらアメリカドルなどをその国のお金に変えます。普通は銀行などで替えますが、急に必要になることもあります。例えば今晩の話。ラオスのトゥクトゥク(タクシーみたいなもの)の中。僕たちは夕飯を終えてトゥクトゥクでホテルに帰るところでした。そのとき、父の財布を見たら、ラオスのお金が足りませんでした。
 実は、ラオスはタイのとなりなので、タイのお金(バーツ)が使えますし、タイ語も通じるのです。
 父の財布の中にはタイバーツも入っていました。でも1000バーツ(日本円で約2550円、ラオスキップで約260930キップ、カンボジアリエルで約131880リエル、ベトナムドンで約68,332,514ドン)しかありませんでした。だから1000バーツをあげたら、
「1000バーツ?こんなに大きいお金もらったら、おつりがない。」
と言われました。だから僕はホテルに走って戻って1000バーツをキップに替えてもらおうと考えました。でも、僕たちのホテルは30、40メートル先です。一方通行だからホテルまではいけないとタイ語で言われました。だから僕は、
「ホテルまで行って1000バーツを替えてくるから待っててもらえますか?」
とタイ語で言いました(僕はタイ語が話せます!!)。運転手の人に分かったと言われたので、猛スピードでホテルまで走り、お金を替えて無事に払うことができました(すごく疲れました)。
 明日タイに行き、2日間休んでからネパールに戻ります。この旅での父の仕事はもう終わりました。会計係以外はもう終わりです。でもあと2日の間、会計係の仕事を立派に果たしたいです。

僕がお金を計算しています。




ラオスのトゥクトゥクです。タイは少し違います。


2012年10月9日火曜日

ホーチミン(ベトナム)-ヴィアンチェン(ラオス)

左からノーイさん、モンティップさん、父。
今日はホーチミン(ベトナム)からヴィアンチェン(ラオス)への旅のことを書きます。
 ホーチミンのホテルで朝食を食べた後、荷物をまとめて空港に出発です。ラオス航空の飛行機でヴィアンチェンに行くためには、パクセ(ラオス)というところに着陸します。パクセはラオス第二の都市です。ネパールのポカラのようなところです。
そこでまず一度飛行機を降りて歩いて空港の建物に入り、入国してからまた同じ飛行機に戻ります。
その後、再び離陸し今度二時間かけて、ヴィアンチェンに行きます。
 この飛行機は、僕たちがネパールで乗った国内線みたいに小さかったです。



 その理由はよく考えたら分かりました。
ホーチミンからパクセはわずか一時間の短いフライトなのです。
パクセの空港では入国してから次の待合室に行きました。小さな、何もない場所でした。飛行機の準備ができるまで、僕は昨日のブログを書いていました。


ブログを書いている僕。

四十分ほど待つと飛行機の準備ができ、飛行機の中に入りました。
そして、離陸してシートベルトサインが消えたらブログを再び書き始めました。

しかし、最初は二時間と言っていましたが、なぜか一時間だけで着いてしまい、ブログを終わらせることができませんでした。



この写真は飛行機の中から撮りました。
日本語で「絆」と書いてあります。

 ヴィアンチェンの空港では国内線だったので何のチェックもなく、荷物を取りホテルに向かいました。
 ホテルに着いて少ししたらラオスで父の仕事を手伝ってくれる方(モンティップさん)とそのお姉さん(ノーイさん)がいらして、一緒にご飯を食べに行きました。この方は僕が小学三年生のときに日本に一年留学し、何と!!!!!!僕と同じ学校に通っていたそうです。




ベトナム戦争博物館(苦しかったです)



 今日は昨日訪れたベトナム戦争博物館のことについて書きます。
 僕は五年前に一度この博物館に行ったことがありますが、まだ六才だったのであまりよく覚えていません。でも今回はしっかりと勉強してきました。カンボジアではポルポトによる大虐殺について見ましたが、この悲惨な出来事とベトナム戦争はつながっていることがわかり、さらに悲しく思いました。
 この博物館に展示されいる写真はとても恐ろしく、僕は正直に言うと外に逃げたくなりました。しかし、せっかく来たのだから、しっかり勉強しなければならないと思いがんばりました。
 まず、ベトナム戦争について簡単に説明します。すごく難しいのでうまく説明できないと思いますが、許してください。
 ベトナム戦争は北ベトナム対南ベトナムの戦いでした。南ベトナムの仲間はアメリカなどです。一方、北ベトナムの仲間は、中国、ロシア(ソビエト)などです。ベトナムは昔フランスの植民地でした。第二次世界大戦が終わった後、ベトナムは二つに分かれてしまいました。アメリカは共産主事が強くならないように南ベトナムを応援しました。北ベトナムは共産主義の国であるロシアや中国が応援しました。だから、ベトナム戦争は戦争した場所はベトナムでしたが、本当はいろいろな国が参加していました。
 アメリカは南ベトナムの武器などのためにたくさんのお金を使い、兵士もたくさんベトナムに戦いに行きました。戦争はアメリカが仲間の南ベトナムのペースで進んでいきました。ですが、北ベトナムも絶対に負けないようにがんばりました。
アメリカはいろいろな武器を持っていて、とにかく何とかして北ベトナムをやっつけようとしました。例えば、枯葉剤という薬で森の緑を枯れさせ、人を見えるようにしたこともありました。その薬にはダイオキシンという毒が入っていて、体の中に入ると、がんになったり生まれてくる子供にも影響するそうです。
ベトさんとドクさんのことを知っていますか?母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。彼女は枯葉剤のまかれた井戸で水を飲んだという。」と
ウィキペディアに書いてありました。母親というのはベトさんとドクさんのお母さんです。


他にもあまりにひどいことがたくさんありましたが、全部書くことはできません。後は写真をのせるので見てください。こんなにひどいことは絶対にしてはいけません!!








 


 

 

2012年10月7日日曜日

ベトナムの国立大学見学

 昨日はブログを書けなくてすみませんでした。おなかの痛み、げり、頭痛でとてもつらかった一日でした。でももう大丈夫です。

昨日の僕です。

 今日は、一昨日シオンさん(ベトナムで父を手伝ってくれている人)の親友、カンさんと共にベトナムで一番大きな国立大学を見学したことについて書きます。ホーチミンはベトナムの首都で、日本で言えば東京みたいなところです。東京では国立大学はいろいろな場所にありますが、ホーチミンでは超巨大な敷地の中にはほとんどの国立大学が集まっています。同じ敷地の中でも、一つの大学から次の大学まで徒歩で三十分もかかります。
 この日は大学に入る正式な許可をもらっていなかったので、授業を見ることはできず、外から大学を眺めるだけでした。
 まずは僕たちのホテルから、徒歩で二十分のところから、バスで一時間。そこから徒歩で二十分のところに大学がありました。その大学はカンさんが通っているそうです。一クラスに五十人から七十人もいるそうです。

バス停です。

 最初の大学から次の大学に歩いて行き、その食堂で僕たちは休憩し、お話をしました。カンさんは来月日本に行き、東京大学や早稲田大学の学生と交流するそうです。

二つ目の大学です。
  それからバスにまた一時間半乗り、ホテルに帰りました。
 僕はホテルに残り休んでいましたが、父は夜、大学の先生たちとの会議に行きました。


一番左の人がカンさんで左から三番目はシオンさんです(父からもらった写真です。僕はここにはいませんでした。)


 

2012年10月5日金曜日

ベトナムの学校見学 二つ目

 昨日行った学校についてお話します。
 今回の学校は、ホーチミンで最もレベルの高い学校の一つです。
まず校長先生とお話し、授業を見学したりアンケートを配ったりすることの許可をもらいました。そしてまずは校内見学です。この学校の生徒数は五百人ほどですが、学校はとても大きかったです。



校長先生と記念撮影をしました。

学校の寮です。二百人ほどの生徒がこの寮に住んでいます。
 その後に校長先生と共に教室に行き、アンケート調査です。六つのクラスを回りました。一クラスは二十八人だそうです。みんな真剣そうにアンケートに取り組んでいました。


アンケートにこたえている生徒たち。


父がアンケートの説明をしています。


アンケートにこたえている生徒たち。
  アンケート調査が終わった後には授業見学をしました。教室が小さいので、父だけ教室に入り、僕とシオンさん(ベトナムで父を手伝ってくれている人)は職員室で待っていました。


授業見学です。左にいる緑の服の人は、先生です(父が撮った写真です)。


授業後です。何人かの人たちが僕を呼びに来てくれて、
一緒に写真を撮りました。


父と学生と先生との記念撮影。
  最後に校長先生にあいさつに行ったらプレゼントをくれました。この学校専用のコップです。またお土産をもらっちゃいました。父は他の国ではお土産などもらったことがないそうです。でもベトナムの学校ではみんなすごく親切だなぁ、と父は言っていました。
 昨日の父は前回以上に真剣していました。今回も僕は自分の仕事をがんばって果たしたと思います。いっぱい写真を撮り、父は何も忘れ物をせず、みんなの雰囲気もよくできました。
今回の学校もみんなすごく一生懸命勉強していたし、僕にも優しくしてくれて、とてもいい学校でした。

2012年10月4日木曜日

べトナムの学校見学

 今日は、昨日父の仕事について見に行ったベトナムの学校について紹介します。
 僕たちのホテルから車で約三十分。生徒数は六百人ほどの中学校と高等学校です。
まずは校長室に入り、校長先生とお話しました。この時には授業を見せてもらえるかどうかわからなかったので、父はとても緊張していました。

学校の門です。


校長先生です。

 最初は父と一緒に行ってくれたシオンさん(前から父の仕事を手伝ってくれているベトナム人です)がただ話しているだけで、校長先生は何も話さないで聞いていました。怖そうな人でした。
 でも、父がタイから買ってきたチョコレートを上げたり、色々と話しているうちに、校長先生は少し自分のことを話しはじめました。この方は、昔ウクライナで苦労して博士号をとり、その後長い間大学の先生をしていたそうです。
 校長先生は自分が話すのを終えると、
「授業をみたりアンケートを配ったりしていいですよ」
といい、電話で英語の先生を呼びました。授業見学ができることになったのです。
 二つの英語の授業を見せてもらいました。最初のクラスの先生はとても教え方がうまかったです。英語もとてもよく話していました。生徒たちも集中していてとてもいいクラスでした。また生徒たちは僕に優しくしてくれ、たくさん話してくれました。次のクラスの先生の教え方もとてもうまかったです。それに生徒たちはとても集中していました。

一つ目のクラスです。

一つ目のクラスです。

授業が終わった後の一つ目のクラスです。

二つ目のクラスです。
 ぼくはただ見ていただけですが、父はこの二つの授業(合計で一時間半ほど)だけでも、ものすごく疲れるほど集中していました。
 最後に校長室に戻ったら、校長先生は僕たちにベトナムのキャラメルの大きな箱をくれました。とてもうれしかったです。最初は校長先生はとても怖そうでしたが、最後には笑ってくれてとてもいい人でした。父と一緒に写真をとりお別れしました。

 僕は父と学校見学をするのは初めてでしたが、父の真剣さが良く分かり、とてもいい機会になりました。僕の仕事は、父の荷物を忘れないようにチェックしたり、雰囲気を良くすることです。
僕はがんばって僕の仕事を果たしたいと思います。

2012年10月3日水曜日

国境越え

 昨日、父と僕はバスに七時間乗り、カンボジアの首都プノンペンからベトナムの首都ホーチミンにたどり着きました。今日はこのときの国境越えについて書きます。
 僕は飛行機以外で国境を越えるの初めてなので、とてもわくわくしていました。
 でもわくわくしていたのは出発して最初の一時間だけでした。
しばらくしたらいきなり気持ちが悪くなり、最初は大丈夫だと思っていましたがやはりだめでした。
朝に食べたチャーハンとお昼のライスをすべて吐きました。とても急だったので袋に入れることができず、父の手の中に吐きました。床にもたくさん落ちました。三十分後にまた吐きました。僕はバス酔いはほとんどしないので、食中毒になったのかな、と思いました。
 このように吐き続けながらも僕の初体験、陸路での国境越えです!!
まずはカンボジアから出ます。パスポートをチェックされました。
その後にバスに一分乗り、今度はベトナムに入ります。スーツケースの中を厳しくチェックされました。それからまたバスに乗り、ベトナムに入りました。
 ベトナムに入国して十分後・・・なんとまた吐きました。もう三回目なので、ほとんど何も出てきませんでした。とても苦しかったです。
 もうだめだと思っていたら、突然アナウンスがありました。
「あと二十分で到着です。」
とてもうれしかったです。時間を見たら、もう夜八時でした。僕はとても疲れていました。
 ホテルに着いてからレストランに食べに行きました。僕は食中毒だと思ったけれど、バスを降りたらもう吐き気がなくなったので、安心しました。
 ちなみにそのレストランは、味がすごくおいしかったです。







疲れ果てた僕です。
エアコンが効きすぎていて、とても寒かったです。
でも、布団がなかったので、ネパールへのお土産をすべて体に巻きつけています。
この写真は、僕が三回目に吐いた十分後です。


バスで少しの休憩を終えたあとに飲み物を買いました。
ちなみに僕はこの水も吐きました。
父は僕が苦しんでいるのにビールです。


ベトナムに入国します。


カンボジアから出国します。


左の赤いバスが僕たちのバスです。