2024年1月31日水曜日

愛と不安

 自己肯定感が高そうだとよく言われる。
「慶志は悩み事が無さそうだよね」「人生楽しそう」
そんなこともないんだけどなぁ。いつもそう思ってしまう。

 僕は、日頃から見せたい自分だけを見せていると感じる。くだらないことを言うが、変顔をするのが嫌いだ。また、悩み事を打ち明けるのが苦手だ。焦ったり、緊張したり、不安に思ったりするネガティブな感情を曝け出すのが苦手だ。そんな自分の内に潜む影を全て曝け出しても、全て受け入れてくれる人はいないんじゃないか。だから、自分が「いけている」姿だけを見せたり、人生の難問にぶち当たった時も余裕ぶったりしてしまうのだろう。弱い自分を見せるのが不安なのだ。

 でも同時に、人に自信を与えることが大好きだ。友人や恋人と話していると、自分に自信が持てていない人が意外と多いと感じる。自分だけではないようだ。少し安心。
 ただ、よく疑問に思うのは、僕が尊敬できると思うその人の一部を本人は欠点と捉えていることが多いこと。もちろん人一倍悩む性格だからこそ、気持ちは良く分かる。だから、僕は愛を伝える。その人たちは皆ありのままで素晴らしいし、輝いて見える。もちろんより高みを目指すための努力は大切だ。しかしどんなあなたであっても、僕は愛する、なぜならそのままで素敵だから。

 先日、ノルウェーにあるムンク美術館を訪れた。ムンクというと「叫び」をイメージする人がほとんどだろう。僕も中学の美術の授業で初めて「叫び」に出会い、幼いながら強烈な印象を受けたのを覚えている。

The Scream (Edvard Munch)

 幼少期に母や姉の死を経験したムンクは、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマに作品を制作していたらしい。何か共感できるものがあった。
 中でも「愛」をテーマにした作品には、「愛することは夢中になることであると同時に痛みも伴う」というムンクの意図が鮮明に描かれていた。愛することでたくさんの喜びを感じられる一方、不安、痛み、そして喪失も経験しなければならない。それは、他人を愛することでも、自分を愛することでも同じだと思う。そんなに愛が辛いものなら、何も愛さなければいいのではないか。しかし同時にムンクは、人は何かを愛さずにはいられないことを伝えているのだと思う。

人のことを愛するように、自分のことも愛することはできるのかな。


Dispair (Edvard Munch)
Madonna (Edvard Munch)



2024年1月29日月曜日

言葉は難しい。
僕はいつからか、自分の言葉を書くことが怖くなっていた。  

 僕の人生は、「普通」ではないことの連続だった。 
 ドイツと日本との国際結婚の家庭で生まれ、6歳の頃に新潟から家族で上京。私立の小学校に入学させてもらった。  
 小3の時、東日本大震災が起こった。母と二人でお気に入りのボードゲームをしているところに大地震が襲い、すぐに家の外に避難していた。当時の自分はそこまで大事として捉えていなかったように思う。ただ、テレビをつけると被災地の津波の様子。東京でも交通機関が止まり、父は仕事から帰って来られなかった。  
 その1週間後、僕たち家族は空港にいた。今度はタイに引っ越しだ。元々父の仕事の都合で2年間タイに住むことは決まっていたが、この震災の影響で父が渡航を早める決意をしたらしい。地震の翌日から、計画停電の中、ろうそくの火を頼りに夜通し引っ越し準備を手伝い、家族全員で空港に向かった。当時は、仲の良い友達に別れを告げなくてはいけない悲しさでいっぱいだったことを今でも鮮明に覚えている。当時も今も、人との別れは大の苦手だ。  
 タイに引っ越し、僕は小4として日本人学校に通った。初めての海外在住。これだけでも、「普通」ではない。明らかに恵まれている。ただ、恵まれているのはそれだけではない。家にはプールがついていた。朝起きるとプールまで一目散に走って飛び込む毎日。最高だよ。父はタイ語の家庭教師をつけてくれ、日本人学校にも通いながら家でタイ語を勉強した。そのおかげで、僕はタイ語がペラペラになった。旅行好きな母にタイの島々に連れて行ってもらったことも全て忘れられない良い思い出だ。  
 すると、また災害。年末年始のタイでは、数十年に一度の大洪水が発生し、私たちは日本の外務省から国外避難を言い渡された(らしい)。向かった先はネパール。何でやねん。今だに疑問だ。しかし、気付いたらネパールの現地校に体験入学をしていた。後発発展途上国の生活を目の当たりにすることとなる。深刻な状態だったか?いや、11歳の僕には、茶色まみれのトイレや、何十匹のハエが飛んでくる食事を食べることなどどうでもよく(正直言うと、少し、いや、結構こたえた)、たくさんのネパール人の友達に恵まれ、言葉は通じないが、1ヶ月後にタイに帰国する時には号泣して別れるくらい仲良くなることができた。  
 2月にタイへ帰ってきた。ちなみに、タイは猛烈に暑い。その中でもこの時期は尋常ではない暑さだ。僕は暑かったり空腹だったりするとイライラしてしまう性分だったため、よくイライラを母にぶつけていた記憶がある。そんなこんなで日本人学校の終業式も終わり、春休みになった。  
 春休みが明けたら、なぜかネパールに引っ越していた。よく分からないが、末っ子の僕はいつも家族に付いていくだけである。僕は、数ヶ月前に通っていた学校とは別の現地校に通った。ネパール全土から貧困だが優秀な子供達が相当な倍率の試験を突破して入学する全寮制の学校だ。ここでの経験が、僕の人生に特に大きな衝撃を与えることとなる。詳しくは、2012年から2014年ごろのブログを読んでほしい。 

 日本に帰国したのは小6。するとすぐにネパールから持ってきた感染症を発症し、瀕死の状態となりICUに入れられた。本当に死にそうなくらい痛く、もがき苦しんだ。しかしどうにか生き延びることができ、無事前通っていた私立小学校に復学し、友達とも再開することができた。 タイやネパールでの経験について作文を書きコンクールに応募すると、複数のコンクールで賞をいただき、日本一にもなった。新聞の取材をたくさん受けた。 
 中学生では公立中学校に通った。読売新聞社でこども記者として活動しながら、卓球部・ソフトテニス部に所属したくさん運動をした。私立小学校では、首都圏のいろんな地域から学校に通っている人たちが多かったため、地元に友達がいなかった僕は、公立中学に入学したことで近所にたくさん友達ができたことが嬉しかった。  
 そして、名門と言われている公立高校に入学した。勉強に疲れた、政治家に憧れていた当時の僕は、勉強そっちのけ(評定平均2.64)で課外活動ばっかりやっていた。たくさんの政治家にあったり、起業家さんとお話ししたり、実際に起業もしかけたりした。  
 当然浪人だ。大学受験に成功するわけがない。2020年、コロナ大流行中予備校に通い、何とか第一志望の大学に合格した。  
 大学入学後は、逆に勉強が好きになる。途上国の子供達を教育によって救いたい。そう思って、教育学だけでなく、色んな学問を学んだ。また、中学の頃から大好きだったスターバックスコーヒーでアルバイトさせていただけることにもなった。店長によると、面接はすごい倍率だったらしい。それもそのはず、スターバックスはキラキラしていて、笑顔の絶えない最高の職場だ。 そして現在は、高校時代からの夢だったイギリス留学をしている。ダラム大学という、イギリス北部の田舎街に交換留学だ。イギリスに住み始めて、合計4カ国に住んだことになる。イギリスに住むことのメリットは、大体のヨーロッパの国は一万円もかけずに飛行機で行くことができるということ。これはたまらない。  

 ここに書ききれなかったことでも、僕はこれまで貴重すぎる経験をたくさんさせてもらった。どれも両親・兄・友人をはじめ、多くの人が数えきれないサポートをしてくれたおかげだ。  
 ただ、僕の弱いところは、自分が周りの環境に恵まれていることをあまりしっかりと認識せず、それに感謝する心をちゃんと持つことができなかったことである。母がたくさん旅行に連れて行ってガキである僕に世界を見せてくれ、無性の愛をたくさん言葉で伝えてくれた。逆に父はそれほど愛を言葉にはしない。ただ、いつも近いところで僕を見て、何でも自由にやらせてくれながらも、大きな間違いをしそうになった時は事前に防いでくれる。また、父は「人と違うことをしろ」とよく言うし、「普通」とは違う、面白い方向に僕を導いてくれもした。家族以外でも、僕の人生に関わってくれた多くの人たちの多くのサポートがなかったら、確実に今の僕はない。それなのに、僕はそれらを自分がすごいからだ、と思った時期もあれば、何かうまく行かない時は自分が恵まれていないからだと思った時もあった。  
 こう思うようになった理由はたくさんあるが、特に最近それをしっかりと認識した。上記の通り、僕は今イギリスに交換留学をしているのだが、この状況を不幸だと思うことが何度かあった。日本にいる友達たちと離れ離れになることに対する悲しさは小学校の頃と変わっていない。他には、日本の企業に就職活動をする上で、外国にいるとやりずらいということ。大学の学生寮に対する不満や、自分があまり環境に馴染めないと感じることも多々ある。それらを環境のせいにし、自分が不幸なのだと感じていた。しかし、そんなことは全くなかった。ふと考えてみると、この留学も、頑張って奨学金に合格はしたものの、家族が大金を払ってくれているから実現しているし、昔からの夢だった「イギリス留学」が叶っているのだ。部屋の窓を開けると世界遺産であるダラム城が目の前に聳え立ち、おとぎ話の世界に紛れ込んだかのような街が広がっている。こんな生活ができているのは「普通」なんかでは全くなく、とても有難いことである。「当たり前だろ」と言われるだろう。ただ、僕にはその想いが足りていなかった。大きく反省している点だ。  
 また、周りに恵まれているからこその機会を棒に振ってしまったことも何度もある。小4から書き続けているこのブログを継続していないこともその一つだ。このブログだって、父に勧められて書き始めたものである。10歳からブログを始めるなんてすごいね!とよく言われるが、周りのおかげだ。ただ、僕はブログを書き続けなかった。中学校に入学してから徐々に投稿頻度が減り、気づけば1年に1投稿ほどになっていた。文章化することが面倒くさい、時間がない、そんなふうに考えてしまっていた。しかし、小4の頃から書いているブログを持っている人なんてそうそういない。そんな機会を棒に振りたくない。今まで何回も「ブログ復活宣言」をしているのだが、果たして僕はブログ執筆を再開できるのだろうか。  
 ただ、悩みもある。ブログを書かないのは継続力がないから。それだけが理由だと思っていた。しかしそれだけではなく、恐らく、自分の感情や考えていることを表に出すことがいつしか怖くなっていたのだと思う。ブログに書きたいネタはたくさんあった。携帯のメモにたくさん書いた。それでも、文章が下手だと思われるんじゃないか、頭が悪いと思われるんじゃないか。そんなプライドが邪魔をして、自分の本当の感情を表に出すのが怖かったのかもしれない。 でも、世界は愛で溢れている。ありのままを見せても大丈夫なのかもしれない。いや、きっと大丈夫だ。それなら、自分が思い、考えたありのままを言葉にしてみたい。  

 最近、就職活動を始めたことがきっかけで自分の人生を振り返るようになった。だから、ふとコンピュータを開き、何かのスイッチが入ったかのようにこの文章を書き始めたのだと思う。僕は、みんなに感謝しながら愛で溢れた自分の人生を生きたいし、そのありのままを言葉にしたい。それが今の僕の、ちっぽけかもしれないが正直な想いだ。